ずっ友の呪縛

「あなたには、一生の友達はいますか?」

私の世代風に言えば”ずっ友”だと思っている人はいますか?

定義や価値観にもよるけれど、たびたび周りの人と話題になったことはないだろうか。



その質問は、「私のこと一生の友達だと思ってる?」と聞かれているような気がして、私は答えるのが怖かった。大人になるにつれて、答える必要のない問いだとわかった。


なぜなら、悲しいことに、人は誰かと出会えば、同じくらい誰かと別れていくからだ。友情というのは波があって、いつか変わるかもしれないと、みんないつの間にか知っていくのではないかと思う。


何度となく友情関係が変わった。

みんなと違う高校に行ったとき、上京したとき、休職したとき、結婚したとき、地方に引っ越したとき。まあ驚くくらい、友達が減ったり増えたりを繰り返した。自分の中で勝手に。


具体的には、3人以上のいわゆる仲良しグループがいたことがある人なら、なんとなく思いつくのではないだろうか。

誰も言葉には出さないけど、話が合わないなと感じたとき。でもしばらく経ったら、忘れたようにどんなことでも一緒に笑えるようになったりする。こういうときのことである。



社会人5年目、紛れもなくアラサーに突入した私の周りで、最近こんな話題になった。


「仲良しグループの中で、自分だけが結婚していなくて、彼氏もいなくて、グループの中で話が合わない。結婚していないのを負い目に感じるし、かと言って未婚の私は不幸なわけでもない。でも、会い続けて話を聞かされるのが苦しい。」


その気持ちを爆発させずに抱える彼女は優しいと私は思った。


彼女は続ける。

「社会人になってから出会った大事な友達で、旅行にたくさん行くほど仲がいいから、いまいっときの私の感情で勝手に突き放したくはなくて。でも私は辛い。どうしたらいいの」


彼女は”ずっ友”に呪われているな〜と私は心の中で思った。


私の世代で日本で育った女性は、なんとなく覚えていないだろうか。

中高生っぽい女の子の絵に、友情か恋愛のポエムがついているあの文房具シリーズ。プロフィール帳交換が流行った世代なら見たことがある人が多いと思う。


そのポエムにはやたら”ずっ友”とか”心友”と書いてあった。

親友、ベストフレンドよりもちょっと重いのだ。個人的には、呪いに近い、縛られる感じのある言葉だ。


既婚に囲まれた彼女の悩みについて、私が一緒に話を聞いていたグループでは、

「言わせておくか、会わないかだよ」「いっときの感情とか思わないで、会いたくなければ会わなくていいんだよ」と言う。


そうなんだけど、彼女にとってはそんなに単純でもないのだろう。わかる。

何度となく経験した、周りに一線を引かれた感覚。これを彼女は自分から他人にやりたくないのだろう。


でも、彼女はきっと、友情に波があること、誰もがずっと同じ関係で一番親しい”ずっ友”ではいられないことを認めて、その呪縛から自分を解放してあげるしかないのだ。それは必ずしも、会わなくなることだけが解決策ではないだろう。


誰もあなたの感情なんて見えないし、あなたが思っているよりも気にしていない。

どんなに親しくても、話が合わないときや、距離が必要なことは必ずある。


家族や先輩に聞いてみるといい。ずっと関係性が一定な”ずっ友”がいる人の方が世の中少ないと思う。

そして、そんな人生の先輩は、こんなことを言ってくれるのではないだろうか。「離れてしまってそれから会えなくなった人は、それまで。それでいいんだよ。そのときに大切な友達だったなら、いい思い出があるならそれでいいじゃない」


よく初恋が特別で美しい思い出になる、と言われるように、それぞれのライフステージの友情だって、どこかでタイミングがきて、どんな暫定的な結末でも、美しい思い出として自分の中に一旦は保管できたらいいのにと思う。


それで、いつか思い出したときに、あなたか、もしくは友達が連絡して、何年も離れたあとに会えるようになることもある。そのときは、あなたたちのライフステージが重なったからだったり、あるいは他の人の道を尊重できるくらい、お互いに想像力が育ったからかもしれない。ううん。そんなこと考えず、「そのときがきたんだ。嬉しい」と思えばいい。同じ人と、少し前とは違う関係性の友情になるのだって素敵だから。


私も、大人になってから彼女と同じような経験があって悩んだ。

それで私は、ただ待ってみることにした。そして、待ってみてよかった。


だって私はいつの間にか、その頃の思い出をどこかに美しいまましまうことができたから。ざっくり言えば、どうでもよくなっただけかもしれない。でももちろん、まだ道が再び交わらない友達のことを思い出して、喪失感というか、寂しい気持ちになることもある。それもその友人との友情の一部だと、いまは認められる。


こんな感情を繰り返しながら、その時を待っていたら、時がきた友達もいた。

「世界が離れちゃった」と私に言ったかつての親友とも、5年ぶりに会うことができた。

20代の女性にとってセンシティブすぎる結婚の縁がたまたま先に私にきて、話しづらくなった友達とだって、数年経ったらまたなんてことなく会えるようになった。

逆に、ずっと親しかったのに、理由もなく会わなくてもよくなってしまった人だっている。


みんな意外とそんなもんだろう。そして私はあるとき気づいた。


”ずっ友”の呪いは、実は友達にかけられた呪いではないのだ。

私が自分にかけていた呪い。線を引かれて、関係性が変わったときの感情を知っていて、その寂しさをまた経験したくない、自分自身の勝手な呪い。


だって実はだれも、あなたに「ずっと一生、毎月この日は私に会ってちょうだいね」なんて言わない。だれも、「私たちずっと”心友”だよ」なんて大人になってから言う人なんていない。


大人になった私たちは、こうやって自分の古い友情に呪いをかけて、友達を失いたくないないだけなのだ。人は出会い、いつか別れることはみんな実はわかっているのに。


だったら、別れるまで待ってみたらいい。

あなたの人生の列車に、乗ってきた人、おりていく人がいて、新しい乗客がいて、一度おりたけどまた乗ってくる人もいる。


あなたはあなたのままで、自分の気持ちを大事にして、自分の列車をただ走らせていけばいい。

そうして走っているうちに、もしかしたら最後に自分の列車が止まるその時まで一緒にいる人も中にはいるかもしれない。


人は一人で生きていけないけれど、人はいろんな人と生きていく。

いろんな人と生きるためには、自分の人生を、きちんと主人公として生きていかなくてはいけない。誰も代わりに列車を走らせてはくれないから。


”ずっ友”に縛られなくても、友達はいつかできるし、いつかまた会えるのが友達だし、思い出にできるのも友達。


私たちには、きっと友達がたくさんいる。

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The BFF Curse